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Tadaya Miyashita,
Art Review

Exhibitions
Artists
■山本太郎
YAMAMOTO, Taro
1974年4月28日生  京都の大学で学ぶ
1999年  ニッポン画を提唱
Taro Yamamoto's "Nippon-ga "encyclopedia
山本太郎のニッポン画大全
誰ヶ裾屏風
2005年、二双一曲(各1680×1644mm)、紙本金地着色

Who's clothes?
2005, (1680×1644mm)×2,
Japanese mineral pigment on paper with gold leaf
 山本が用いる屏風や掛け軸という支持体は、単なる白い板(タブラ・ラサ)ではない。屏風は半立体物であり、そこに描かれた絵の表情は、置き方や見る角度によって一変してしまう。また、普段は巻いた状態で保存される掛け軸。掛け軸は、絵単体では成立しない。表装を含めて、初めて掛け軸たりえるのだ。さらに、これら支持体のサイズは、くらしによって規定されている。通常、屏風やふすまは、6尺対3尺(1820mm×910mm)前後と決まっているが、それは配置されるだろう部屋の広さに呼応している。そこには、日本のくらしの伝統が確かに息づいている。
現代日本で「伝統」を描く
 今、京都で最も勢いのある若手現代美術家、それが山本太郎だ。2006年7月、京の町が祇園祭でにぎわう中、旧家が所蔵する屏風などの家宝を一般に披露する「屏風祭」と時を同じくして行なわれた美術展覧会『日本゜画(にっぽんが)屏風祭』は、京都の複数のギャラリーやケンタッキー・フライド・チキン(KFC)の店舗、寺社などを巻き込み、まさに「裏」屏風祭として山本太郎の存在を多くの人々に知らしめた。彼は、築50年は悠に超えるだろう町屋の一室にアトリエを構え、日本に昔から伝わる絵画技法を駆使して、現代日本の姿を象徴的に描き出す。
ニッポン画K松翁図屏風
1999年、四曲一隻(1830×2560mm)、紙本金地着色

Nippon Painting K-Pine Tree with Old Man Screen
1999, 1830×2560mm,
Japanese mineral pigment on paper with gold leaf

 その山本が最も得意とするのが、日本の古典的な図柄と、それに相反する現代的なモチーフを並置させる手法だ。最初期の作品『ニッポン画K松翁図屏風』(1999年)には、古くから屏風や障壁などに好んで描かれ、日本人にとってはなじみ深い松の木と、日本を表す日の丸、そしてそれらとは対照的なKFCの商標、カーネル・サンダースが描き込まれている。伝統的な「日本」と、アメリカ化した「ニッポン」。その両者が混在するこの絵は、まさに今日の京の町並みそのものではないか。そんな説明不要なほどシンプルなメッセージと、画面全体に漂う独特のユーモアが、観る者を思わずニヤリとさせる。
 花見の季節の円山公園を思わせる2005年の作品、『紅白幔幕図』。ここにも「日本」と「ニッポン」が混在する。画面の左右に、ことのほか日本人に愛される桜と松の樹木が鎮座し、その背後に紅白の幕を装った裏と表、縦と横がさかさまのアメリカ国旗が掛けられている。
紅白幔幕図
2005年、二双一曲(各1828×1690mm)、紙本金地着色

Curtain or Flag
2005, (1828×1690mm)×2, Japanese mineral pigment on paper with gold leaf
 カーネル・サンダースと星条旗、そのどちらもニッポンを表象する記号に他ならないが、この『紅白幔幕図』の画面に浮かび上がるのは、『ニッポン画K松翁図屏風』に見られるような諧謔ではない。浮かび上がってくるのは、我々一般市民が好む好まざるに関わらず、9・11以降のアメリカの暴走に、国家として加担してしまっている日本の現状に対する危機感だ。
 現代日本が抱える問題と正面から向き合いながらも、山本は一方で、私たちに肩透かしをくらわせる。日本の伝統的な技法や構図を踏襲しつつも、日本画とは一線を画する自身の作風を、「日本画」ならぬ「ニッポン画」と呼び、現代的な記号を多用する。このような意図的な風刺の手法とは裏腹に、しかしその表現は風刺としての先鋭さに欠けている。彼の作品の表層を支配するニッポン性は、一義的で平坦なものにすぎず、故に、誰が見ても似通った印象を受けるような、角の取れた柔らかなものだ。風刺的なアイキャッチに惹かれその裏側まで凝視しようとする視線は、やんわりとはぐらかされてしまう。
 山本は、しかしそこで、「それは現代日本が薄っぺらいからだ」とか、「これこそがニッポン的で『粋』な表現だ」などと開き直ったりはしない。だとすると、作品の表層に立ち現われるメッセージは、観客を自身の世界へと導き入れるため、入り口脇に立てた幟(のぼり)のようなものにすぎないのかもしれない。事実、彼の作品からは、アメリカ化されたニッポンへのアイロニー、もしくは、深みを欠いて平面的になった現代社会に対するニヒリズムでは説明のつかない「何か」が感じられる。
 ここで山本の作品が、洋紙やアクリル絵具を用いたインスタントで折衷的な手法ではなく、正統派日本画技巧によって制作されていることを強調しておかなくてはならない。当然、制作者には、下地作りから彩色、箔押し、仕上げの表装に至るまで高い技術が求められる。しかしそれらの技術は、伝統を表面的に引用して「ニッポン」を描くには、ほとんど必要のないものだ。
 では山本は、そのようなあえて手の込んだ方法を用いて、現代日本を表現しているだけなのだろうか?・・・いや、そうではない。山本にとって、古典様式は単なるパロディーの対象なのではない。むしろ、彼は現代に生きる日本人の立場から、「伝統」の姿を描いていると考えるべきなのだ。日本の伝統とその背後にある豊かな世界、例えば、昔ながらの自然観や文化の土着性、普遍的な美などといったものを追い求めているのだ。しかし山本は、日本美術に真摯に向き合う中で、「ニッポン」を意識せざるをえなかった。
 このような、日本とニッポンの間の歪みを補正しようとする、「日本画の言文一致運動」とでも呼べるような行為など、これまでも幾度となく繰り返されてきたことにしか過ぎない、と言う人もいるかもしれない。しかし、伝統とは、絶え間ない革新によって継続するものであり、それは、西欧の流行を輸入するという断絶の繰り返しでは到達困難な地平にある。最後に再び、ニッポン画家・山本太郎の作品に目を向けて欲しい。フラットなニッポンの向こう側にある伝統的で豊饒な世界が、あなたにも見えてこないだろうか?

                             ■Tadaya Miyashita, Art review, 2006/9/15
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